実践大学内の心元テニスコートで、スポーツウェア姿の鄭博仁氏がラケットを握っている。彼は心元資本の創始者である。対戦相手は、台湾トップのテニスプレーヤー、何智仁氏だ。激しい試合を終えると、鄭博仁氏は「膝の負傷がなければ、スプリントもストロークも、もっと速かった」と苦笑した。
鄭博仁氏は非凡な人物であり、華々しい経歴を持っている。シリコンバレーのエンジェル投資で活躍する数少ない台湾人であり、彼の運用資産は4億米ドル(約126億台湾ドル)を超えている。彼はHahow、91APP、AIスタートアップ企業のiKala、クリエイティブデザインプラットフォームのPinkoiの株主でもある。さらに、ミシュラン1つ星を獲得した「冨錦樹台菜香檳」、「梵焼肉」、「挽肉と米」といった飲食業にも投資している。彼が投資した企業は200社以上にのぼり、株式上場に成功した企業もある。そのうち12社は評価額10億米ドルを超える「スタートアップユニコーン企業」であり、彼はアジアで最も影響力のある人物の1人である。
彼は投資家であり連続起業家であり、世界的なテニスプレーヤーでもある。かつて台湾のジュニアテニスのシングルスとダブルスでランキング1位だったこともある。彼は「ここまでたどり着いたのは、単なる偶然と運だった」とほほ笑む。
彼が小学生のとき、父親はテニスの観戦もプレーも好きで、息子にもスポーツをさせたいと思い、公園に連れて行き、テニスコーチを含む仲間たちと練習させた。何度かボールを打った後、皆は彼にテニスのセンスがあることに気づき、テニスで17年連続1位になっている中山小学校に通わせることを父親に勧めた。
入学当初、鄭博仁氏はたくましい体つきではなく、足も速くなかった。テニス向きではなかったが、彼の真面目さから、有料で「練習生」としてチームに参加することになった。中山小学校の練習は厳しいことで有名で、朝6時40分には登校し、校庭を20周走り、1分遅刻すると1周追加のペナルティが課せられた。
鄭博仁氏の家は遠く、練習生として参加し始めた当初は、交通機関の遅れで遅刻することが多々あった。彼は苦笑いを浮かべながら「何週間かは忘れたが、毎日他の人より何十周も多く走らなければならず、泣きながら走っていた」と語る。彼が苦労しても決して諦めなかった理由は、恵まれた環境で育ったわけではなく、唯一できることがテニスだったからである。
鄭博仁氏は、幼い頃から自分の手にあるものの価値を最大化する方法を理解していた。入学した当初、彼だけがチームで練習代を払っており、誰よりも熱心に練習する生徒であった。その努力を認めた先生は、「全国ベスト4に入れば練習代は払わなくていい」という目標を伝えて彼を激励した。それから彼は、放課後の練習にもより一層励み、毎日作戦を考え、目標を達成したら父親に報告しようと黙々と努力した。そしてついにベスト4に入ったとき、彼は興奮して家に駆け込み、「もう練習代を払う必要はないよ」と父親に伝えた。驚いた父親は、「チームから追い出されるほどの悪さをしたのか」と冗談を言った。
父親は驚いただけでなく、信じられない思いであった。しかし、鄭博仁氏の性格が、困難に直面してもまず目の前の課題を解決し、常に前進する人物に育てたのだ。当時、彼はテニスの練習に夢中であった。その結果、彼は台湾のジュニアテニスランキングのベスト4に入り、最終的には台湾のジュニアテニスのシングルスとダブルスのランキングで1位にランクインするまでに成長した。そして台湾代表として、日本やシンガポールでのアジアユース選手権や世界ユースアジア予選などの世界大会に数多く出場した。また、ナショナルチームにも選出され、中学からアメリカでトレーニングを受けた。彼は「ランキング入りしてから大人になるまで、シューズを買う必要がなく、服やラケットもスポンサーが用意してくれた」と笑って話す。
振り返ると、彼はアメリカでのトレーニング時代に世界を知り、視野を広げたという。彼は「アメリカ人はチャンスを探す訓練をするが、アジア人はリスクを回避する訓練を受けるため、物事の見方が違う」と言う。また、起業についても「アジア人は、起業は難しく失敗する可能性が高いから諦めるが、アメリカ人は、起業すれば億万長者になれるかもしれないと考える」とも言っている。
プロや体育教師にならず、スポーツ特待生の選抜を辞退して台湾大学に入学した最初の人物
スポーツ特待生は通常、ナショナルチームでプレーした後、プロに進むか、師範大学体育学部に入学して体育教師になる。しかし、鄭博仁氏はこの慣例を打ち破った最初の人物であった。彼は全米大学体育協会(NCAA)に進むつもりであったが、当時、銅管の仕事をしていた父親が台湾大学で検測を行った際、ヤシの木が並んでいることが印象深かったと彼に話した。父親ははっきり言わなかったが、息子が台湾大学に入学することが父親の夢であると鄭博仁氏は感じた。そして、台湾大学に入学することが親孝行であると思ったため、彼はアメリカでプレーすることを一時断念し、スポーツ特待生の成績を活かして台湾大学情報管理学科に入学した。これにより、選抜を放棄して別の試験を受けて台湾大学に入学した初のナショナルプレーヤーとなった。入学後、クラスメートの協力もあり、学業に追いつき、台湾大学の4年間の必修科目をわずか3年で修了した。
彼は「自分の経験に基づいてゆっくり学ぶ人が多いが、私はせっかちなので、何かを学びたいと思ったら、その分野で最も得意な人を探して教えてもらう」と話している。アメリカでの経験があるため、台湾の学生とは異なる視点を持ち、その異なる経験を共有し、クラスメートとお互いの得意分野を教え合うことで、早く学ぶことができたのだ。結局のところ、彼が台湾に留まる決断をした理由は、キャンパス内で育まれた友情が大きかった。また、彼を起業家の世界に導いたのは、学校の先輩たちとの交流がきっかけであった。
コートでは自分だけが頼り、テニスで問題解決能力を養う
彼はテニスを通じて問題解決能力を養った。野球やバスケットボールのようなチームスポーツとは異なり、テニスは試合中にコーチが指導できない数少ないスポーツの一つであり、頼れるのは自分だけだ。「戦略は何か。武器は何か。武器が通用しなければ、どうすれば勝てるか」。これはテニスプレーヤーが日々考えなければならない問題であり、数秒で判断する必要がある。
鄭博仁氏が思い出す最も象徴的な試合は、タイで行われたオーストラリアとの試合であった。彼はまずシングルスで勝利したが、4時間以上の試合で体力を消耗してしまった。続くダブルスの試合では、タイの気温が40度を超えており、彼がウイニングボールを打った瞬間、全身が痙攣し病院に搬送された。それでも彼の心は、勝利の喜びで興奮していた。
競技場と市場はよく似ており、勝つためには戦いの前に十分な準備が必要だ。91APPが台湾で上場し、Hims&Hersがニューヨーク証券取引所で上場の鐘を鳴らしたときも同じである。そのとき鄭博仁氏が感じたのは「ついにやった」という達成感であった。これは、長時間のトレーニングを経てアスリートが最後に勝利を手にするのと同じ感情だ。
激しい競争に求められるものは、強靭な精神力と観察力、数秒で即決する力
テニスは彼に多くの恩恵をもたらした。熾烈な競争の中で素早く分析し、現場での観察から導き出された論理的思考に基づいて、自らに反射的な決定を強いることで、自然と問題解決能力を身につけた。ベンチャー投資に必要な迅速な決断力、正しい判断力、そして人間関係の構築力を彼はテニスを通じて培ったのである。
鄭博仁氏は、評価額10億米ドル(約316億台湾ドル)に達する上場企業を2社も設立している起業家でありながら、彼がよく語るのは起業家精神というよりも「人間性」についてである。世の中には勤勉な人は多いが、彼のような経験をしている人はほとんどいない。それは彼の頭が特別に良いからでも、勤勉だからでもなく、ほとんどが運によるものだと彼は言う。彼は「運は自然にやってくるものではない。正しい態度こそが、私に運をもたらすのだ」と笑いながら話す。
では、「正しい態度」とは何か。彼は、「ポジティブ思考を保ち、失敗から学び、不必要な感情労働や内輪もめでの消耗を避けること」と説明する。鄭博仁氏の同僚は「彼と長年一緒に働いてきたが、彼が落ち込んでいる姿を見たことがない」と言う。たとえ悲しいことがあっても、彼は感情を消化するのに最長で2時間しか使わない。常にポジティブかつ柔軟な思考を持ち続けることで、他の人が思いつかないような良いアイデアを見つけることができるのだ。
「人生における最大の達成感は、自分の業績や金銭的な報酬ではなく、他人の成功にある」と鄭博仁氏はほほ笑む。彼の現在の仕事は、かつて彼自身が誰にも認められず、諦めかけたときに手を差し伸べてもらったように、他の人にチャンスを与えることだ。「毎日、頭の良い人たちが私のところに来て、世界をどう変えたいかを語ってくれる。目覚めたとき、この世界でどんな面白いことが起こっているのかを楽しみにしている」と彼は語る。
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